東京帝国大学の山下英男らが終戦直後の1948年頃に研究試作した統計機.
戦前より統計機械は米国製のパンチカード統計機に頼っていたが,1940年頃には輸入が困難になった.また,カード式統計機に用いられる紙カードには高い品質(精度と丈夫さ)を求められるため,当時の我が国において,国内生産は困難であった.山下は内閣統計局の中川友長からパンチカードを用いない方式の統計機について相談をうけ,小野勝次(名古屋帝国大学),門下の佐藤亮策らとパンチカードを用いない新しい統計機の構想をまとめた.戦前に基礎的な研究を行い,当時は機械の試作が困難な時代であったが,三井報恩会および日本電気島津保次郎の好意で,一応試作モデルができていた.戦後この方面の関心が高まり,研究可能となったので実用試験を重ねて研究試作を行い,継電器4,000個余,度数計2,000個余を使用して,1948年一応実用可能な機械を完成した.
この機械では多数のオペレータが伝票を見ながらキーボードから直接データを入力し,それがリレーによるレジスタに蓄えられ,順次度数計で構成された表示回路に表示される方式をとった.これは画線法を機械化した方式であることから,この機械は山下式画線統計機と呼ばれた.
この機械は,中川友長,舘稔(人口問題研究所)らが創設した中央統計社で,官庁や新聞社からの統計委託業務に使用された.山下式画線統計機は,富士通信機(現富士通)および日本電気により商品化され,1951年3月に富士通信機製造により東京都統計課に,同年8月に日本電気により総理府統計局に納入された.これらの機械は電気統計機とか電気分類集計機などと呼ばれていた.