山下英男は1899年5月2日生まれ.1923年東京帝国大学工学部電気工学科卒業.1938年同教授.元来電気機械が専門であったが,内閣統計局勤務の友人中川友長から相談を受け,統計機械に強い関心を持つことになった.
1930年代後半我が国でも統計計算に対するニーズが増大し,米国製のパンチカード機械がこれに使われていたが,1940年これらの機械は戦略物資として輸入が困難になってきた.この状態を憂えた中川は山下にその打開策を相談した.たまたま数学者の小野勝次(名古屋帝国大学)が2進法を応用した統計機の案を持っていたので,中川,山下,小野,および山下門下の佐藤亮策が継電器を素子とする電気統計機の試作研究を開始した.パンチカード統計機のように原伝票から一度カードにパンチしたものをデッキにまとめて入力するのではなく,多数のオペレータが伝票を見ながらキーボードから直接入力し,それが継電器によるレジスタに蓄えられ,順次に度数計で構成された表示装置に登算される方式であった.
第二次大戦中は資材不足のため,部分的な試作にとどまったが,終戦後軍が放出した継電器4,000個余,度数計2,000個余を使用して,1948年一応実用可能な機械を完成した.戦後間もない研究費の乏しい頃であったから,完成までの山下らの労苦は並大抵のものではなかった.この機械は中川友長,舘 稔(人口問題研究所)らが創設した(社)中央統計社で,官庁や新聞社からの統計委託業務に使用された.継電器式計算機FACOM 128Bによる我が国最初の本格的計算サービスが有隣電機精機で始まったのが1956年11月であったから,統計計算に限られていたとはいえ,このサービスはその8年前であった.
この機械には入力用キーボードが20組あり,各組は正副に分かれていた.入力は待ち合わせ回路を経て相互にチェックされ,一致していれば受け付けられ(不一致ならば再入力)て,まったく同じ構造を持った正副の演算回路に順次送りこまれる.演算結果は比較回路でチェックされ,不一致ならば破算して再計算される.演算回路は20組の入力に共通であったが,人手の入力であるから,待たされているという感じはまったく与えなかった.この機械は山下式画線統計機と呼ばれ,1951年日本電気,富士通信機製造によって商品化され,それぞれ,総理府統計局,東京都統計部に納入された.
その頃欧米ではいくつかの大学研究所で電子計算機が完成し,稼働を始めていたが,高価な大型計算機は,世界的なレベルで開発・共用しようという考えがあった.そこでユネスコが国際協力研究機関として大型計算機による共同研究センタを設置することを計画し,このための条約会議を1951年11月パリで開催することになった.当時日本は占領下にあったが,この会議に招請され,学術会議で検討の結果,政府代表萩原徹(外務省)の技術顧問として,1951年度文部省科学研究費による総合研究「電気計算機の研究」の班長であった山下を派遣することにした.会議の結果ローマに国際計数センタ(ICC)を置くことが決まり,山下は日本を代表するその理事に任命された.パリの会議のあと山下は欧米各国の計算機施設を,おそらく日本人としては最初に視察することができた.一方ICCが刺激となり,1952年度文部省機関研究費1,000万円で東京大学に大型計算機TAC(Tokyo Automatic Computer)を設置することになった.この計算機は以後7ヵ年を要して1959年2月にようやく完成したが,山下はこのプロジェクトに終始関係し,完成時には管理委員会委員長であった.
1959年6月ユネスコの主催により第1回の情報処理会議がパリで開かれたが,その提案がICCで行われたことから,山下はその準備委員を務めた.またこの会議を機として情報処理国際連合(IFIP)が設立されたので,山下は和田 弘(電気試験所)と諮り,我が国を代表してIFIPに加盟する学会として,1960年情報処理学会を設立し,その初代会長に選ばれた.
山下は1959年東京大学教授を定年退官し,東洋大学工学部長に任命された.勳二等旭日章.日本学士院会員.東京大学,東洋大学各名誉教授.電気学会,情報処理学会,応用物理学会,IEEE各名誉会員.
1993年5月27日没.
All Rights Reserved, Copyright (C) Information Processing Society of Japan