日本のコンピュータパイオニア:池田 敏雄

池田 敏雄池田 敏雄
(いけだ としお)
1923〜1974

池田敏雄は1923年8月7日生まれ.1946年に東京工業大学電気工学科を卒業すると直ちに富士通信機製造(現富士通)に入社した.戦後の空白期間を経て,再び計算装置に対する関心が高まったころ,東京都庁統計課では,戦災で焼失したIBMパンチカード統計機の代わりに,山下英男らが開発した統計分類集計機を設置することになり,これは富士通信機製造に発注され,1951年5月に納入された.その後山下英男,を通じて富士通信機製造に株式取引高清算装置の開発打診があり,これを小林大祐の下で池田敏雄,山本卓眞などがその試作開発にあたった.1953年3月に完成した.この装置は,これに続く継電器(リレー)式自動計算機の開発に多くの示唆を与えることになった.

その後,池田はFACOM 100と命名された計算機の設計を担当し,1954年10月にこれを完成させた.この計算機は,日本初の科学技術用実用リレー式計算機であって,内部10進3余りコードを用いる海外には例を見ないものであった.FACOM 100は社内外の委託計算に利用され,人手でやれば2年はかかる計算を引き受け,湯川秀樹の多重積分を3日間で完璧な回答を出した.FACOM 100の完成後直ちに商用機の設計に入り,1956年9月リレー式計算機FACOM 128Aを完成させた.その1号機は文部省統計数理研究所に,2号機は同年11月に有隣電機精機に納入された.この計算機は内部10進であるが,2・5進コードに改められ,その他の工夫もあって,演算速度は2〜5倍向上した.その他方式的には独自のチェック方式と非同期方式,クロスバースイッチによる記憶装置,大きな紙カードによる半固定記憶装置,インデックスレジスタの採用など多くの工夫が凝らされていた.これらの考案はそのほとんどが指導者であった池田敏雄個人の発案であった.

1954年には,後藤英一パラメトロンを発明した.池田もパラメトロン式計算機の開発に力を入れ,1959年,磁気コアとフジカード読取機(ROM)の併用によるプログラム記憶方式を採用したFACOM 212,1960年電気通信研究所の技術による MUSASINO-1B(FACOM 201),東大との共同開発によるPC-2(FACOM 202)などを手がけた.

また,半導体技術の将来性に着目した池田は,パラメトロン式計算機の開発と並行してトランジスタ式計算機の開発にも手を着けており,1961年,主記憶に400語のコアを持つ大型汎用機FACOM 222Pを完成させた.さらに通産省の補助金によって1964年に完成したFONTAC(富士通・沖電気・日本電気 共同) の開発では,その指導的役割を果たした.

1964年4月,IBMがシステム/360シリーズを発表したが,池田の努力により,富士通はその翌年にはFACOM 230シリーズを発表しこれに対抗した.この頃からIBMを意識した池田の戦略が始まる.その意識は超大型計算機FACOM 230-60の開発によく表れている.1968年京大に納入されたその第1号機は主記憶を共有する2台のCPUを持ったマルチプロセッサシステムという画期的な構成であった.

コンピュータの事業化に成功した池田は,次に世界戦略に着手する.その手始めとして,1972年米国アムダール社とIBM互換機の共同開発を行うことを公表し,その成果は,FACOM M-190として結実した.

池田はコンピュータの事業化に注力しつつも,夢を抱くことを忘れることはなかった.1968年,米国CDC社がスーパーコンピュータSTAR(STring ARray computer)を発表したことを知った池田は,直ちに独自のスーパーコンピュータを開発すべく動きだした.折しも航空宇宙技術研究所の三好甫がコンピュータ風洞の構想を持っており,三好の指導と池田の社内推進によって国産初のスーパーコンピュータFACOM230-75APU(Array Processing Unit)が誕生した.

このように,池田は一貫して同社計算機の技術的指導者であった.1974年常務取締役の時代に激務のためか羽田空港ロビーで卒倒し,不帰の客となった.APUは1977年に航空技術研究所に納入されたが,その完成を池田が見ることは叶わなかった.しかし,池田の夢は,1982に発表されたFACOM VPシリーズならびにそれ以降の富士通のスーパーコンピュータに脈々と受け継がれている.

主な受賞
1970.04.06 科学技術功労者顕彰「大型計算機システムFACOM230-60の開発」で科学技術庁長官賞受賞
1971.04.18 恩賜発明賞受賞
1971.11.10 紫綬褒章受章
1974.11.14 正五位勲三等受章


(三輪 修)