日本のコンピュータパイオニア

小林 大祐小林 大祐
(こばやし たいゆう)
1912〜1994

小林大祐は1912年6月13日,兵庫県多可郡加美町で生まれ,1994年8月,7年に及ぶ闘病生活の後,静岡県函南において没した.富士通信機製造の第1期生として入社,社長,会長,相談役まで勤め,富士通をグローバルな企業に育て上げた.その足跡は自著「体験的経営論ともかくやってみろ(東洋経済新報社)」に詳しい.

小林は1935年,京都帝国大学工学部電気工学科を卒業.富士電機製造に入社するが,同年6月に富士通信機製造が設立されるとそちらへ転勤になる.小林は戦時中,帝都防衛システムにかかわった経験から,コンピュータへの関心が芽生えた.戦後, 技術部開発課長の小林は,電話の増備計画の激減から,次に富士通の取り組むべきテーマとして計算機とマイクロ波多重通信を取り上げ,自主研究を進めた.小林は電話交換機を担当していたので,リレーを使って計算機ができないかと考え,自主開発を始めた.当時の富士通には池田敏雄(1946年に入社)と塩川新助(1951年富士電機から富士通へ転入)がいたので,大きな戦力となり,また技術部長の尾見半左右も計算機部門への進出に積極的であった.

1952年,東京証券取引所の株式精算システムを製造したが,これは採用にならず,この計算機に改良を重ねてFACOM 100を完成させた.「ともかくやってみろ」は小林語録となり,富士通の伝統となった.その後リレー計算機FACOM 128A,Bを製造.128Bは沼津工場の池田記念室で動態保存されている.

1959年,電子部長となる.このころ岡田完二郎が社長になり,富士通は本格的に計算機事業に乗り出すことになる.1964年,ニューヨークの世界博覧会にFACOM 231を出品した.しかしこれはソフトウェアがIBMと互換性がないため,売れない.そこで小林は互換路線への転換を決意する.

1965年頃,京都大学大型計算機センターの商談で,FACOM 230-60を受注した.これはIC,多層プリント板を採用し,汎用OSによるマルチプロセッサ,TSSを指向する大型機であった.

1973年,健康上の理由で,函南に転居,以降 新幹線通勤を続ける.1976年,清宮 博の後任の社長となり,1981年,山本卓眞に引き継ぐまで在任した.1979年,小林が社長在任中に富士通は互換路線が効を奏し,電算機部門の売上高で国内トップになった.この頃,富士通経営研究所を設立し,45歳研修が始まるが,それは小林の常日頃の考えを実現したものであった.

小林は社長になってから,かな漢字混じり文書の必要性を感じ,日本語情報システムJEFを開発させた.またワードプロセッサOASYSを登場させた.

1981年 会長
1986年 勲一等瑞宝章受章,情報処理学会昭和60年度功績賞受賞.
1987年 相談役
1994年8月21日没.

(和田 英一)