山本卓眞は1925年9月11日熊本市に生まれた.陸軍幼年学校を経て1945年に陸軍航空士官学校を卒業,満州にて終戦を迎える.1949年に東京大学第二工学部電気工学科を卒業すると富士通信機製造(現,富士通)に入社し,以来,データ通信技術部次長,情報処理本部ソフトウェア技術部長,電子事業本部長を歴任, 1975年に同社取締役,1976年常務取締役,1979年専務取締役,1981年に代表取締役社長,1990年に代表取締役会長に就任.1997年名誉会長となる.この間,初期にはH型交換機の開発,次いでクロスバ交換機の開発に従事した後,電子交換機の研究開発にも携わった.
1952年には天才といわれた池田敏雄と協力して電子計算機の開発に取り組み,この分野の我が国における先駆者として活躍した.すなわち我が国最初のリレー式自動計算作表機を完成した後,1961年のトランジスタ式大型汎用電子計算機FACOM222の開発を経て,1965年からは集積回路,大規模集積回路による超大型から中型に至るまでの汎用コンピュータの実現に先駆的役割を果たした.これらの成果に対し,1958年,1965年,1968年の3回にわたって発明協会優秀賞や発明賞が授与された.特に全面的に大規模集積回路化を実現したコンピュータを世に送り出したことによる,システムの高信頼化・高速化と経済化の達成は,社会・経済および科学技術の発展に大きく貢献するところとなった.
山本はこれらの開発を一貫して国産・自主技術で遂行することを目指し,ハードウェア,ソフトウェア,特にFACOM230-60用である我が国初の汎用オペレーティングシステムの開発,初期のオンラインシステムの開発,さらには大規模集積回路や高密度多層プリント板,あるいは大規模回路設計技術,製造技術の開発などを陣頭に立って推進した.同時に,特に1970年代にはIBM互換性を保持して社会各層からの要望に応える中で,新機能を追加し,性能を向上させ,コストパフォーマンスにおいて優れたものを開発する基本路線を確立し,それらをFACOM Mシリーズとして結実させた.その結果1979年度には富士通の売上高は日本IBMを抜くまでになった.
海外展開面では,山本は1972年,米国アムダール社に資本参加後,経営に尽力し,また英国最大のコンピュータ会社であるICLを9年間にわたる技術協力の後,1990年に資本参加し,それぞれの会社を育ててきた.山本社長時代の最大の事件はIBMとの紛争であった.これはIBM互換路線を採用したからには避けて通れない道であった.仲裁の結果,多額の和解金をIBMに支払うことになり,IBM互換ビジネスが認められたが,ダウンサイジングの到来とともに,IBMの情報にアクセスする必要はなくなり,この問題は収束した.
山本は国土審議会会長代理,大学審議会特別委員,超高性能コンピュータ開発技術組合理事長,通信機械工業会会長,日本電子工業振興会会長,経済団体連合会評議員会副議長の要職についた.
2012年1月17日逝去(事務局注).
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