清宮 博は1908年8月6日生まれ.第一高等学校を経て, 1932年3月東京帝国大学工学部電気工学科を卒業.直ちに逓信省電気試験所第4部に入り,光通信,電子管(マグネトロン,速度変調管)などの研究を担当した.関壮夫,二条弼基などとともに同所に真空管研究のための神代分室(第7部,後の電子管部)を開設した. 1948年8月電気試験所から電気通信部門が分離された時,清宮はその電子管部長であった.
1949年電気通信省電気通信研究所設置とともに,清宮は器材実用化部長に任命された. 1955年1月清宮は理事として電電公社を辞し,富士通信機製造(現 富士通)に入社.同年11月取締役.常務,専務を経て1971年4月副社長. 1974年11月社長.1976年3月会長.同年4月27日没.
1971年9月頃から通産省による「新製品系列開発」補助金(計算機の輸入自由化の見返りとして,国産機のメーカに輸入機に対抗できる新製品系列を開発させるための補助金)の計画が始まった.通産省の意向は国産6社では多すぎるので,2, 3社にまとめようということであった.最初にまとまったのが富士通・日立グループであったが,清宮が当時日立製作所副社長であった久保俊彦と一高時代に同期であったことがこの提携を促進する大きな要因であったことはよく知られている.
池田敏雄のよき碁仇であった清宮は,計算機の担当役員として池田の活動を終始支援した.通常はなんでも若い人に任せるようであったが,アムダールの製品がなかなかものにならず,見通しに意見が別れた時には,清宮は果敢に介入を決意した.
清宮は社長就任後,時を経ずして病魔におかされ,清宮社長の時期は短かかった.当時シーメンスにメインフレームの技術を供与する話が進行していた.清宮には自分が社長であるうちに提携をやり遂げたいとの執念があり,晩年の病床で自らシーメンスあてのレターを書いた.それは鬼気迫る光景であったという.この提携契約は清宮の没後2年して実現した.
All Rights Reserved, Copyright (C) Information Processing Society of Japan