尾見半左右は1901年4月5日,茨城県真壁郡明野で生まれた.1923年,蔵前の東京高等工業学校を卒業し,南満州鉄道の鉄道研究所へ入社するが,1936年,創立半年後の富士通信機製造へ移った.新職場ではそれまでの装荷ケーブルではなく,松前重義の主唱する無装荷ケーブルによる搬送方式の開発, 国産化を担当した.
戦後になって新型電話器の開発,ダイヤル機構の開発を指導した尾見は,ベル研究所の雑誌に所長のKellyが「交換機技術と計算機技術は従兄弟の関係にある」と述べているのを読み,計算機に関心を持ち,どちらも情報を取り込み,多くの処理を施し,情報を取り出すという点で共通であるとの認識を持った.
尾見は富士通では計算機を作るのは無理だと思っていたが,1951年頃, 山下英男の依頼で統計機やリレー計算機の製造を引き受け, 貴重な経験を積むと,富士通は計算機製造で一歩先を進むことになる.
1954年にはFACOM 100を製作したがこれも長年使い慣れたリレーを用いた.この計算機や電気試験所のMARK IIで使用する,60単位の幅広の紙テープと,60桁のラインプリンタを開発した.FACOM 100では,リレーの動作回数が多いので,特別に作ったリレーを採用して,高速化と安定化をはかり,逆論理回路を使った自己検査システムを実装して,リレーの接触不良に対応してあった.
1960年代,国産メーカ各社は外国メーカと技術提携を進めたが,尾見は自主開発路線を選び,「苦しい数年はあったが,遂には提携したメーカを追い越せた」と当時を回顧している.
尾見の事業への基本姿勢は,不退転の決意と国産化への情熱であった.外国からの技術導入を避け,自由な開発を促進した.パラメトロンを使った数値制御による自動工作機械の開発もその一例である.
1967年Gene Amdahlと池田敏雄を会わせたのは尾見であった.Amdahlと尾見,池田は意気投合し, 1970年に設立されたアムダール社には富士通が協力することになった.
尾見は技術動向に先見を持ち,指導力があり,大変な勉強家,読書家でかつ人情味豊かであった.
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