【自働算盤】 機械式卓上計算機

矢頭良一は独力で計算機の研究を行い,1903年に特許取得後に日本で最初の機械式卓上計算機を製造した.矢頭は父親の事務を手伝いながら計算機の発想を得たといわれ,中学を中退後私塾で基礎学科を習得し,飛行研究と卓上計算機の研究を行った.3年間の苦労の上完成した機械式卓上計算機(自働算盤)の模型と,長年の研究結果をまとめた「飛翔原理」の論文を持って1901年に福岡日日新聞の高橋主筆に面会したが,高橋は矢頭の能力を高く評価し小倉第12師団の軍医部長森林太郎(鷗外)に紹介状を書いた.鷗外は矢頭の人柄と研究に感銘し,東京帝国大学の教授に仲介の労をとった.1902年3月に矢頭は自働算盤の専売特許を出願申請するとともに,全金属製の自動算盤を完成させた.特許は1903年1月に許可され,3月に工場を設けて日本で初めて計算機を製造した.1個の円筒と22の歯車を用い,入力は算盤と同じ2・5進法の10進法加減乗除の手動式卓上計算機で,1台250円と高価であったが二百数十台が販売された.その売り上げ金は矢頭の飛行機の研究に投入された.矢頭良一は30歳の若さで他界した.
 自働算盤のパンフレットには下記のような記述がある.
今や欧米諸国の市街は到る処計算機あり.・・・然れども計算機は我算盤を知らざる外人の発明したるものなるを以って算盤より勝れる点多きにも拘らず之より不便なる個所も亦尠なからざるなり.さればその使用者は算盤と計算機とを合わせたるが如き速算機械を得んことを切望せしが自働算盤はこの希望を充分満足せしむることを得るものにして曾て外国製計算機を使用せられし所の紳士は続々自働算盤を購入し給えり・・・.

 自働算盤は豊前松江の矢頭良一の妹の家系にあたる久冨家に1台保存されていたが,現在は関連資料とともに北九州市に寄贈されている.


  
機械式卓上計算機「自働算盤」,北九州市所蔵