日本のコンピュータパイオニア

山内 二郎山内 二郎
(やまうち じろう)
1898〜1984

山内二郎は1898年4月1日生まれ. 1922年東京帝国大学工学部電気工学科を卒業,電気試験所第3部および第6部を経て, 1942年東京帝国大学教授(航空研究所所長兼任),1947年同大学工学部計測工学科教授, 1958年慶応義塾大学計測工学科教授,1959年同大学に管理工学科を創設,主任教授となる. 1970年青山学院大学理工学科教授.この間,1965〜67年に情報処理学会会長,特にプログラミング関係では,1960年から79年にプログラミング・シンポジウム運営委員会委員長を務めた.1969年情報処理学会名誉会員に推薦された.

山内は1950年前半より計算機の使用環境の整備に尽力した. この頃はIBMやUNIVACなどパンチカード方式のプログラム記憶方式でない計算機が集計業務に利用されていた. 山内はオペレーションズ・リサーチや科学技術計算など高度な計算処理への利用を目指して, これを活用するため1954年に日本科学技術連盟に統計機械活用研究会を設置し, 委員長として活動を始めた.毎月1〜2回,高橋秀俊(東大), 森口繁一(東大),島内武彦(東大), 安藤 馨(IBM),伊藤栄一(第一生命),鴨志田清(通産省)らが集まって討議した.

山内はまた,1958年,計算機を経営管理に用いる新しい構想のもとに,管理工学科を慶應義塾大学に創設し,自ら主任教授として教鞭をとった.計算機利用の学問の場を具体化したことは,以後の情報工学科や情報科学科の先鞭として,同年設立された甲南大学のそれとともに先駆をなすものであった.

1959年,弥永昌吉を代表とする数理科学総合研究が,文部省の科学研究費の助成を受けて,全国の数理科学者を網羅して行われた.山内はこの第IV班の委員長として,「電子計算機が数理科学の研究に大きな影響をもたらし,利用技術を含めた電子計算機システムが,単に他の研究の手段としてではなく,それ自身が数理科学の研究対象となる」という認識のもとに,この班を運営した.ここでは,数値計算だけではなく,定理の証明に計算機を活用することを取り上げた.当時の数学界では,「計算機は研究手段に過ぎない」として消極的であった人々を転向させるの効果があった.これをきっかけとして計算機の道に入り,定理の証明だけでなく,計算機科学全般に興味を広げた数学者も多い.この班のメンバは山内を委員長として, 大泉充郎(東北大),高橋秀俊(東大),森口繁一(東大), 喜安善市(通研),宇野利雄(日大),黒田成勝(名大), 城 憲三(阪大),清水辰次郎(阪府大),芝垣和三郎(九大)らである.

我が国の電子計算機業界の活動が本格化した1960年代以降も,山内は活動を続けた. 1960年代情報処理学会の設立に参画,前述のとおり1965〜66年度の会長, 1964年大学が輸入計算機を共同利用するユニコンの設立,1970年情報処理研修センターの理事長等,情報技術の発展に大きな貢献をした.

1984年3月31日没.


(和田 英一)