日本のコンピュータパイオニア

城 憲三城 憲三
(じょう けんぞう)
1904〜1982

城憲三は1904年1月29日大阪に生まれる.1928年京都帝國大学理学部数学科を卒業,浜松高等工業学校講師を経て,1929年大阪工業大学(1933年大阪帝國大学工学部となる)講師,1941年理学博士,大阪帝國大学教授となった.城は単葉関数の研究等で輝かしい業績を重ねつつ,工学部共通講義数学解析を担当していたが,1939年精密工学科開設に伴い新たに数学機械の講義も担当した.数学機械に強い関心を持ち,戦前から,面積計,調和解析器,微分解析機などのアナログ計算機,機械式・電動式卓上計算機,統計機械(PCS)などのディジタル計算機の研究と蒐集を行った.その成果は1941年から雑誌 「機械及び電気」(養賢堂)に2年にわたり連載され,その後一度ならず原稿を戦火で焼失されるも1947年に「数学機器総説」(増進堂)を出版した.

1946年Newsweek誌に紹介されたENIACの記事から,いち早く電子計算機の研究に着手し,1949年には真空管の10進計数回路を実験,1950年には10進4桁のENIAC型演算装置を研究試作した.そのかたわら当時入手困難であった文献の入手に奔走し,その情報提供にも貢献した.岡崎文次は城に文献を送ってもらったことがあるという.城と牧之内三郎(大阪大学)の共著になる「計算機械」(共立全書)は1953年6月に出版され,当時この分野で唯一の成書であった.

さらに城は1954年電子計算機の使い方と題して,プログラミングについて雑誌「機械の研究」(養賢堂)に連載している.また計算機科学の発展に備え,数値計算,確率統計の講義や,通信理論,情報理論の研究を計画し実施した.1950年から研究試作を始めた2進方式真空管式電子計算機は,1953年科研費80万円を受けるなど試作を続けていたが,乏しい予算をやりくりしてようやく完成に近づいたときには,すでにトランジスタ式が主流となっており,ついに完成をみなかった.城は研究当初から「計算機は,かりそめのあればよいというような程度のものではない」と語り,国としての電子計算機の重要性と国産を強く提唱し国産機の育成にも努めた.関西において産学を超えた計算機にかかわる研究会等を種々主宰し,情報処理学会の設立や1963年同学会関西支部の開設にも貢献するなど,学会・産業界において計算機・情報科学の発展に尽力した.

1967年,城は大阪大学教授を退官,1974年まで関西大学工学部教授の職にあり,1982年2月9日に他界した.1964年情報処理学会副会長を務め,1980年情報処理学会名誉会員に推されている.


(高橋 茂・牧之内 三郎・安井 裕)