日本のコンピュータパイオニア:岡崎 文次

岡崎 文次岡崎 文次
(おかざき ぶんじ)
1914〜1998

岡崎文次は1914年7月7日生まれ.1939年東京帝国大学理学部物理学科を卒業,直ちに富士写真フイルムに入社し,レンズの設計を担当することになった.その設計には多大の数値計算を伴うことから,電子的な手段による計算を何となく考えていたときに,「科学朝日」の1948年8月号に掲載された安藤馨のIBM-SSEC(Selective Sequence Electronic Calculator)の解説記事を見て,その可能性を知った.そこで,「レンズ設計の自動的方法について」という社内レポートを出したところ,1949年3月に20万円の予算を与えられた.これがまさに,日本で作られた最初の電子式自動ディジタル計算機,FUJICへの第一歩だった.

レンズの設計には何千本という光線を追跡する必要がある.岡崎の狙いはこの仕事を計算機で速やかに行なうことだった.1949年3月に研究に着手,実際の製作に着手したのは1952年12月だった.3年9ヶ月にわたる準備研究と,3年3ヶ月の製作作業を経て,岡崎は1956年3月にFUJICを完成した.会社から与えられた資金的支援と最小限の補助者を別にすれば,岡崎が7年にわたる研究,設計および製作をほとんど単独でやり遂げたと言うことは驚嘆に値する.

FUJICは論理装置,記憶装置,入力装置,および出力装置からなる.真空管は約1,700本で,その大部分は論理装置に使われた.記憶装置には1語33ビットで255語を貯える水銀遅延線を採用した.岡崎は光学的カード読取機まで自製し,カードを送り出す爪の材質や形状には特に注意を払ったと言う.出力装置は事務用の電動タイプライタと継電器,電磁石などを使って製作した.1953年には計算機は殆ど完成し,FUJICと命名された.1955年11月16日,2進・10進,10進・2進変換の論理は未完成だったが,電気通信学会の電子計算機専門委員会でFUJICを動作状態で公開した.FUJICは完成後社内のレンズ設計のための計算の他,外部の依頼計算にも応じ,その結果は多数の学会論文として発表された.

岡崎は1959年日本電気に移り,1972年退社して専修大学経営学部教授となった.

1984年情報処理学会功績賞,1986年情報処理学会名誉会員.

1998年7月23日没.


(高橋 茂)