日本のコンピュータパイオニア:浦城 恒雄

浦城 恒雄浦城 恒雄
(うらき つねお)
1936〜

浦城恒雄は1936年5月12日に生まれ,1959年東京大学理学部物理学科を卒業.卒業演習は高橋研究室で, 完成間もないPC-1に触れた.直ちに日立製作所に入社し,コンピュータの開発に従事した.

1965年からのHITAC8000シリーズ開発では高橋 茂らの指導のもとに中型機(8300 米国RCAと共同開発),小型機(8100)の方式設計を担当.1968年銀行のオンライン化に対処するため,従来配線論理制御であった端末制御をきわめて単純なコンピュータ(H-9040)を設計して世界で最初の蓄積プログラム方式の銀行端末制御装置を開発した.続いて国産初のミニコンピュータHITAC-10を計画し,方式設計を行った.1968年通産省大型プロジェクトなどを念頭に大型機のメモリ制御方式を検討し,マルチプロセッサ構成におけるキャッシュ制御方式を考案した.本発明はその後世界中の多くの大型コンピュータで使用され,後に発明協会の通産大臣賞を受賞した.1969年電電公社のDIPSプロジェクトに参加し,仕様策定に参画した.

1972年から始まったHITAC Mシリーズ開発では最上位機種のM-180の責任者として開発に従事した.米国の販売業者を通じて世界中に輸出され,輸出事業の出発点となった.引き続きMシリーズ全体の製品計画を担当し,事業化を推進した.

1977年以降情報システムの高度化,ネットワーク化に対応して情報システム全体の体系化が必要な時代になり,体系化プロジェクトの責任者としてネットワークアーキテクチャ,漢字システム体系などを推進した.

1995年技師長を最後に日立製作所を退職.現在東京工科大学メディア学部教授.

情報処理学会では1980〜81年に理事・常務理事を務めた.また学会の標準化活動に長くかかわり,1986〜89年に規格調査会理事を務め,1998年標準化功績賞を受賞.なお1981年以来歴史特別委員会委員.


(2004.2.6現在)