日本のコンピュータパイオニア:高田 昇平

高田 昇平高田 昇平
(たかだ しょうへい)
1911〜2005

高田昇平は1911年9月14日生まれ. 1935年3月,京都帝国大学工学部電気工学科を卒業,沖電気工業勤務を経て1938年日立製作所に入社.日立研究所にて通信関係の研究に従事,1943年に東京市国分寺町に中央研究所が開設されるに当たり,日立製作所の通信,真空管などの研究開発の責任者となった.

1956年,高田の旧友で日立製作所電線工場研究部長であった久本方が,電源開発の奥只見−東京間送電幹線の敷設計画にあたり, ACSRケーブルによる送電線の設計計算を人を集めてタイガー手廻し計算機で行っていることに着目し,これを技術サービスとして電子計算機で高速に処理れば,受注に結び付けられないかと,中央研究所の高田に相談した.高田は,知恵はあるが,金と人がない.これらの手当てをしてくれれば立ち上がろうと返事した.久本は上司の決断により500万円を用意し,電線工場研究部から岩上秀夫と沼尻文哉を派遣し, 1956年6月中央研究所で電子計算機の開発プロジェクトがスタートすることになった.

当時東大理学部の高橋秀俊研究室で, 後藤英一が電子計算機の論理素子パラメトロンを発明し,高田はこれに注目して日立中央研究所で電子交換機への適用を検討していたので,この技術を電子計算機に適用することとした.記憶装置としては磁気ドラムの採用を決断,中央研究所で研削した直径100mmのアルミドラムに磁性膜の塗布を東京通信工業(現ソニー)に依頼した.その制御回路には真空管を使用したが,その後トランジスタに置き換えた.約1年後の1957年12月, HIPAC MK-1と名付けたこの電子計算機の開発プロジェクトは成功し,計算機としての基本機能を確認することができた.直ちに電力ケーブルの弛度張力の計算に適用し電源開発からの奥只見幹線のケーブル受注に成功した.

1959年6月, ユネスコにより世界で初めての情報処理国際会議がパリで開催されることになったとき, その展示会 AUTO-MATH 1959 にパラメトロン計算機出品の要請が 山下英男和田 弘から高田にあり, HIPAC MK-1を改良した HIPAC 101を出品,安定に稼働させることができ,好評を博した.

1959年8月,高田は日立製作所戸塚工場コンピュータ部長に任命された. 1962年8月に新しく発足した日立製作所コンピュータ事業部神奈川工場副工場長を経て1963年神奈川工場長, 1964年コンピュータ事業部技師長となり日立製作所におけるコンピュータ事業の発展に貢献した.

1974年日立製作所を退職し,エレクトロニクス,コンピュータ関連の技術開発を目的とした会社リンクを東京都国分寺市に設立して代表取締役社長となり, 2001年会長となった.情報処理学会では,1965-66年に理事,1971-72年に副会長を務め,1980年名誉会員に推挙された.

2005年3月28日逝去.


(2005.8.26現在)