日本のコンピュータパイオニア:天羽 浩平

天羽 浩平天羽 浩平
(あもう こうへい)
1928〜

天羽浩平は1928年7月31日に大連市で生まれた.1952年に東京大学電気工学科を卒業し,東京芝浦電気(現在・東芝)に入社した.同年第一回フルブライト留学生となり米国スタンフォード大学院でコンピュータを研究し博士号を取得し,同時に同大学院の助手および電子応用研究所員となり活躍した.1956年に帰国し真空管,ドラム記憶装置,機械語の時代より,一貫してコンピュータの開発,設計,商品化,事業化に取り組んだ.

1958年にトランジスタを用いたパッチボード・プログラム方式のTOSBAC-2100を開発し,1959年4月に国産電子計算機メーカが初めて一堂に会して行った電子協主催の発足会に出展した.1961年には記憶・プログラム方式のTOSBAC-3100を完成させた.両計算機はライン・プリンター,カード入出力装置を完備した当時では数少ない本格的な事務用コンピュータであった.

1961年から京都大学の萩原 宏とともに,KT Pilotというマイクロプログラム方式コンピュータの開発を行った.KT Pilotはプラグボードでマイクロプログラム・ロジックを組む画期的な可変マイクロプログラム方式であり,非同期で制御した.また高速トランジスタ回路を開発したほか,ツイステッド・ペア配線や全面グラウンド方式を採用して電気的ノイズの対策を行った,さらに冷却の工夫をするなど方式上・回路上・実装上の諸問題を解決して高速化を図った.このようにKT Pilotは,その後のマイクロプログラム/ファームウェア方式が全盛となった時代を先取りしたコンピュータであった.その研究成果を1962年にミュンヘンで開催されたIFIPで,日本代表の論文の1つとして発表し好評を博した.

KT Pilotの技術成果をもとに,それを改良して商品化し世界一の高速コンピュータと新聞が報じたTOSBAC-3400を1963年に完成させた.TOSBAC-3400は科学技術用コンピュータとして市場を席巻し,毎年の日本電子計算機ショウで多大の反響を得た.また,1968年にモスクワで開いた東芝の展示会に出品した.

その後GE,ハネウェル社との汎用大型コンピュータの共同開発を含めたTOSBAC,ACOSブランドのコンピュータの開発,設計および事業を主導した.この一環で3式のACOS 600S,700をイラクに輸出した.また,わが国初の日本語ワードプロセッサ(1978年),漢字が打てるドット・プリンタを備えた斯界初のオフィス・コンピュータ(1978年),分散コンピュータDPシリーズ(1978年),パーソナル・コンピュータ(1983年)などを次々に市場に投入し,東芝のコンピュータ事業の基礎を作り上げた.1980年には日本で最初のワードプロセッサ教室(現在・東芝OAコンサルタント)を第17森ビルに創設し,女性の花型職業を作った.

1974年に日電東芝情報システム社の常務取締役,1982年に東芝の取締役,1984年常務取締役になった.なお1986年から日本オリベッティKKの副社長を兼任した.

1988年にサン・マイクロシステムズに転じた.日本企業の役員から外資系企業への転身は異例であり注目を浴びた.そして同社の日本法人の社長,会長を歴任した.さらに同社の米国本社の副社長を兼任し,ワークステーションおよびクライアント・サーバ型ネットワーク・コンピュータ方式の事業基盤を作り上げるとともに,徹底した間接販売方式を導入して在任中に売上げを約13倍に伸ばし,これにより日本におけるネットワーク・コンピュータ方式の普及に貢献した.これらの成果は,日本での外資系企業の成功例として政府の機関誌で紹介された.1997年に同社を退任した.

また,かねて主張している産学連携の推進役として会津リエゾンオフィサ(会津大学と産業界の橋渡し)ならびに日本ピープルソフトの監査役を務めた.現在は東芝の社友であり,また外資系情報産業研究会名誉会長(元・初代会長)として本人のアイデンティティであるインターナショナルとコンピュータを軸として後輩の育成,支援を行っている.同時に東大鎌倉会会長でもある.

天羽はアメリカτβπ,Sigma Xi(Engineering および物理の優等生のメンバーの会)の会員に選ばれ(1953年,1954年),現在も会員である.

特許,著書,論文(含海外)多数あり.


(2006.7.28現在)