松下重悳は1936年3月11日生まれ.1959年3月東京大学工学部電気工学科(通信専攻)を卒業した.その後,1963年8月米国イリノイ大学電気工学科の修士(Master of Science)を,1972年10月には東京大学より工学博士の学位を取得した.
1959年4月に東芝(当時東京芝浦電気)に入社,電算機用トランジスタ基本回路の設計を担当し,パッチボードプログラム式や磁気ドラム内部プログラム式のコンピュータの主任設計者を務めた.フルブライト奨学金で1962〜63年にイリノイ大学修士課程に留学し,ディジタルコンピュータ研究所でパタン認識コンピュータILLIAC IIIの開発に従事した.
1961年に京都大学萩原助教授(当時)との共同研究が始まり,我が国で最初の本格的なマイクロプログラム計算機KT-Pilotを完成した.光電素子に被せたパンチカード,およびパッチボードで実現した可変マイクロプログラムが1962年の国際情報処理学会(IFIP)で注目された.これを基に高速マイクロプログラム計算機TOSBAC-3400が1963年から開発され,その主任設計者となった.FORTRANを中心に使った地方大学のコンピュータセンタやレンズ設計用にカメラメーカに普及した.
東芝は当初,GE電算機事業部と技術提携をしていたが,HIS(Honeywell Information Systems)に吸収後は日本電気と共通の提携先となった.
1974年にはHISに技術者数十名を送り込んで共同で高速コンピュータとその技術を開発するプロジェクトを主導した.東芝で開発したマイクロプログラム方式の低価格大型コンピュータACOS-600Sの設計を1978年HISにライセンスした.HISおよび日本電気との技術と事業の折衝と契約を担当した.
7年間の独学で構築したディジタル信号のクロストーク回路理論で,1974年に東京大学から工学博士を授与された.
1978年に東芝は大型汎用コンピュータ事業を日本電気との合弁会社日電東芝情報システムに営業移管したが,この事業企画・折衝・契約を担当した.一方で東芝はオフィスオートメーション(OA)の名のもとに小型コンピュータ,通信,事務機の統合による新しいオフィスの実現に注力したが,この企画推進を担当しOAの普及伝道に尽力した.後に統合技師長としてこれら各事業の技術行政を担当した.またコンピュータ部門と重電システム部門の組織統合によりこれらの技術行政を担当した.1985年にはIBM互換パソコンT-1100のラップトップ進出の戦略を決めた.
海外の新しい企業群の台頭に対応して,サン・マイクロシステムと日本初のOEM契約,CADのコンピュータビジョンとの合弁,オリベッティとの合弁,ネットスケープ(Netscape)との日本初の販売提携など,海外との事業提携を進めた.
1993-96年東芝情報システムの専務として,COBOLの特注ソフト開発から,オンランソフト,パッケージソフト,パソコンソフトへの移行を先導した.1996-2001年米国起業会社Winkの日本社長として双方向テレビの普及に尽力した.
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