松崎磯一は1927年7月3日生まれ.1949年旧制武蔵工業専門学校卒業,直ちに通商産業省電気試験所に入り,材料部の材料測定研究室(主任:高橋 茂)に配属された.同じ研究室に中島達二,西野博二,近藤 薫などがいた.「もの作り」の技量に優れ,また実験や測定の綿密さでは人一倍優れたものを持っていた.材料部時代に松崎が手作りで完成した損失角直読計は日新電機が,変成器ブリッジは安藤電気が,それぞれ製品化した.
1954年7月電気試験所に電子部が発足,材料部から高橋,西野,松崎,近藤の4名が移り,ようやく入手可能になったトランジスタの特性測定法などを手がけていたが,同年11月,部長の和田 弘と高橋が相談して,トランジスタで計算機を試作することになった.
この計算機ETL Mark IIIの記憶素子は硬質ガラス媒体の超音波遅延線(金石舎製)で,松崎はこれに貯えるパルスの増幅整形回路を担当した.彼の技量なら朝飯前だと思われたのに,なかなかうまくいかず,2週間ほど悪戦苦闘していたが,ある日突然,「そうか,パルスはいつ来るか分からないから,セルフバイアスは駄目だ!」と叫んだ.普段は無口で,こんな大声は珍しかったが,まさにこの時ディジタル回路の本質を理解したのだった.以後デバッグは順調に進み,1956年7月にETL Mark IIIが完成,我が国で2番目,もちろんトランジスタ式では最初の電子計算機となった.
Mark IIIを短期間に完成して,大いに自信を得た高橋らのグループは,引き続き接合型トランジスタによるETL Mark IVを開発した.素子の速度の違いから今度は記憶装置には磁気ドラムを採用,その周辺回路は松崎が担当した.Mark IVの完成は1957年11月,Mark III完成後1年半足らずだった.ETL Mark IVの技術は,日本電気,日立,北辰電機,松下通信工業などに伝わり,我が国コンピュータ産業の立ち上がりに大きく貢献した.
松崎は1962年10月,日立製作所に移り神奈川工場に勤務した.日立での松崎の業績で,最も目立つのはROM(Read Only Memory)の開発だった.プリント配線したマイラーシートにフェライトのEI型コアを挿入するROMを考案,HITAC 8400に採用を決めたところ,日本IBMがシステム/360モデル40のハードウェアを展示,そのROMはコアがUI型である以外は松崎が考案したものに酷似していた.彼はガラス越しに約1時間これを観察,UI型の利点を会得し,設計をこれに切り替えた.このROMはHITAC 8000シリーズ初期のすべてのモデルに使われた.また日立が開発したDIPS-1Lには抵抗を素子とする高速ROMを採用,これも松崎が開発したものだった.
1983年松崎は日立を退職,ミナトエレクトロニクスに移った.同社で取締役にという話があったとき,技術に生き甲斐を感じていた彼は,性に合わないと固辞,退職後は日本工学院専門学校で教えていたが,1993年4月6日膵臓癌により急逝した.
電気試験所でも日立でも松崎は常に目立たない存在だったが,たとえばETL Mark IIIにしても,松崎なしでは,その短期間での完成は不可能だったと思われる.
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