日本のコンピュータパイオニア

萱島 興三萱島 興三
(かやしま こうぞう)
1932〜2018

萱島興三は1932年11月10日生まれ.1955年に京都大学工学部電気工学科を卒業し,直ちに日立製作所に入社した.約1年間推計学,ORなどの研究に従事した後,上司の高田昇平,島田正三らの指導の下にパラメトロンを使った電子計算機HIPAC MK-1の開発に専念し,1957年12月にこれを完成させた.HIPAC MK-1はパラメトロン約3,000個を使用し,語長38ビット平均アクセスタイム5ms,1024語の磁気ドラムを記憶装置として使用し,インデックスレジスタ3本と,命令アドレスレジスタによる多重修飾のできる機能を特徴としていた.1959年6月ユネスコによりパリで第1回情報処理国際会議が開催されたとき,その展示会AUTO-MATH 1959にHIPAC MK-1を改良したHIPAC 101を出品し,安定に稼働させることができて好評を博した.

その後,日立製作所戸塚工場に転属し,1962年8月コンピュータ事業部が設立されるに当たり,パラメトロンコンピュータHIPAC 101,103の製品化のとりまとめを担当した.また日立製作所とRCAとの技術提携によるRCA/Spectra 70シリーズの国産化,RCAと日立とのSpectra 70/35(HITAC 8300)の共同開発など,電気試験所でトランジスタ計算機を開発し1962年日立に転属した高橋 茂の下でHITAC 8000シリーズの事業化に貢献した.

1968年電電公社のデータ通信/処理システムDIPSのプロジェクト発足に伴い,参加したNEC,日立,富士通3社のなかで,日立のハードウェア/システムとりまとめの役割を果たした.1969年に開発が始まったDIPSの最初のモデルDIPS-1Lについては,その日立版を1971年6月武蔵野電気通信研究所に納入した.

1979年ミニコンピュータ,オフィスコンピュータ,データ端末装置などを担当する日立製作所旭工場の工場長,1984年日立製作所コンピュータ事業本部技師長となり,急速に進歩する情報産業の発展に貢献した. 1985年日立製作所を退職,日立電子エンジニアリング常務を経て,1993年同社社長,1999年会長となり,2001年相談役.

情報処理学会では1976〜78年理事,常務理事を務めた.


(2003.8.29現在)

2018年6月逝去(事務局注).