日本のコンピュータパイオニア

渕 一博渕 一博
(ふち かずひろ)
1936〜2006

渕 一博は1936年2月16日生まれ. 1958年東京大学工学部応用物理工学科(計測コース)を卒業.通商産業省工業技術院電気試験所に入所した.

渕は学生時代,高橋秀俊高橋 茂の著書によりプログラム内蔵方式を知り,その簡潔な美しさに感動,独自の歴史観,技術史観からその広大な将来を予感した.

学部4年の実習に電気試験所の高橋茂の研究室を志願,開発中のETL Mark IVの手伝いをした.西野博二の命で作成したETL Mark IV用の入力ルーチンは記号アドレスの処理などを含み20行ほどの超短の曲芸プログラムで渕のプログラミング初体験になった.

電気試験所に入所直後,高橋にETL Mark IVの改造を命じられた.同所で開発中だった磁心記憶装置接続のためだったが,渕は,命令体系をモダンなものに切り替えるなど,全面的に再設計をした.加藤雄士とともに稼働させたそのETL Mark IV Aは,簡潔なマニュアルとともに数年間所内での実用的使用に耐えた.

そのころスタートしたMark VI設計の議論では,渕は,後年のキャッシュ方式の原型にあたる「プログラムスタック」の提案をした.

1961年,渕はイリノイ大学DCLへ留学し,当時開発中だったILLIAC IIの手伝いで命令デコード部を担当, 「非同期回路」での設計を実現した.

1962年帰国時の電気試験所は,和田 弘,高橋茂が去った後で,新方針を模索中だった.1964年の通産省「大型プロ ジェクト制度」(通称マル超)スタートを機に,渕は,TSSのOS開発を提案,野田克彦,相磯秀夫の決断で所内にプロジェクトチームが結成された.野田の政治力で設けられた機械振興会館内の「芝分室」で,渕は,設計チーフに自ら任じた.Multicsを参考にした設計だったが,ページング方式やシステム記述言語などに独自のアイデアがあった.システムは稼働したが「Unix」にはならなかった.

数年後,本部に戻った渕は,マル超の後継プロジェクト「パターン情報処理」の企画にかかわり,もの作り的な原案を基礎研究指向に全面的に書き換えた.また,研究用インフラストラクチャとして,異機種接続のマルチコンピュータネットワークを提案,実現させた.

1972年,渕は,音声認識研究室長および新設の推論機構研究室の室長を兼務し,後者では論理指向の人工知能,自然言語処理の研究グループを育てた.

1980年頃始まった(通称)第五世代コンピュータの企画では,渕とそのグループは「並列推論」をキーワードとする未踏技術の開発を提案する.後年のTRONなどにつながる「現実案」との激論があったが,委員長の元岡 達の決断により前者の方向が定まった.

1982年,渕はプロジェクトのために新設された(財)新世代コンピュータ技術開発機構の研究所長に就任する.元岡をリーダとする学界からの応援,「霞ヶ関」の異例ともいえる全面的支援があった.世界的に研究を活性化し,その成果は豊かだったが,まだ「業界的現実と歴史」にはなっていない.

1993年,渕は,プロジェクト終了に伴い東京大学工学部教授に転じた.科学技術長官賞(1994年).1996年には還暦定年で慶應義塾大学理工学部に移った.紫綬褒章(1996年春).ほかに人工知能学会功労賞,情報処理学会功績賞などの受賞がある. 2000年に東京工科大学に移籍し現在に至っている.


(2003.8.29現在)

2006年8月13日逝去(事務局注).