日本のコンピュータパイオニア

和田 弘和田 弘
(わだ ひろし)
1914〜2007

インタビュー記事

和田弘は1914年11月10日生まれ.1938年3月東京帝国大学工学部電気工学科卒業,直ちに逓信省電気試験所に入り,第3部(強電部門)に勤務,翌年志願して海軍造兵中尉となり,引き続き応召,1945年技術少佐で電気試験所に復員した.1951年論文「電極式電気汽罐に関する研究」により,東大より工学博士の学位を得たが,和田の研究についての関心は,海軍でレーダの実用化に没頭したことから,弱電に移っていた.

一方電気試験所は1948年8月,占領軍の命令で電気通信部門を分離商工省に移ったが,1951〜52年命によりMITに留学,エレクトロニクスの目覚ましい発展を実感して帰国した和田は,電気通信以外の弱電流工学としてエレクトロニクスの研究が工業立国を目指す我が国には不可欠であることを説き,1954年7月電気試験所電子部を設立,その部長に任命された.エレクトロニクスに電子技術という訳語を与えたのは和田であった.

和田は電子部での研究の重点をパルス技術(今日のディジタル技術)に置くことにした.電子部ではこの方針と,当時ようやく国産品が現れたトランジスタの応用という2つの観点から,トランジスタ計算機を開発することになった.開発を担当したのは高橋 茂西野博二などであったが,和田は記憶装置に金石舎による硬質ガラス遅延線を採用すること,トランジスタなど部品の実装をプラグイン方式にすることなど適切な指導を行った.この計算機ETL Mark IIIは1956年7月に完成,プログラム記憶方式ではFUJICに次いで我が国で2番目,トランジスタ式では最初の計算機となった.コンピュータの試作は遅れるのが常であった時代に,Mark IIIが短期間で完成したのは,記憶装置に問題がなかったことと,プラグイン方式で部品の交換が容易であったことに負うところが大きい.Mark IIIのトランジスタは初期の点接触型で劣化が激しかったが,間もなく安定な接合型ができたので,Mark IIIで得た自信の下に,直ちに接合型トランジスタによるETL Mark IVの開発に着手,1957年11月に完成した.記憶装置には速度の関係で今度は磁気ドラムを採用したが,その発注先の選定についても和田の指導力が遺憾なく発揮された.和田はMark IVの技術を日本電気,日立,北辰電機,松下通信工業などに伝え,我が国計算機産業の立ち上げに大きく貢献した.

1957年春,和田は計算機による英文和訳の研究を始めた.Mark IVでは記憶容量が不足なので,容量82万ビットの磁気ドラムによる専用機「やまと」を開発することにした.開発は高橋茂らが担当し,1959年2月に完成,和田は蓼沼良一などを指導して翻訳の研究を進め,翌年中学3年程度の翻訳を可能とし,我が国での機械翻訳研究の先鞭を付けた.また「やまと」への入力を目的に英字自動読取の研究を始めた.英字のパターンをダイオードマトリクスと比較する方式で,我が国での文字読取の嚆矢であった.

和田は機械翻訳と文字読取機について1959年第1回情報処理国際会議(パリ)で発表した.この会議が口火となって国際情報処理連合(IFIP)が設立されたが,我が国にはこれに対応する学会がなかったため,和田は山下英男を会長とする情報処理学会を設立するリーダシップをとった.Information Processingに情報処理という訳語を与え,これを学会名にしたのも和田であった.

和田は計算機を含む電子工業の重要性を痛感し,1956年通産省が電子工業臨時措置法案を作成するのを指導し,自ら国会での答弁にも立った.その具体策の1つに,電子工業振興協会の設立があった.また1964年,東京大学に計算センターが設置されたとき,和田は計算機選定委員会の委員として,国産機の採用を強く主張し,産業の活性化に寄与した.

和田は情報技術の標準化にも早くから強い関心を持っていた.1961年ISO,IECなどによる国際的な標準化が始まったとき,我が国にはこれに対応する組織がなく,世界の孤児になることを憂慮した和田は,設立直後の情報処理学会でその対応を引き受け,以来30余年その活動の指導的立場にあった.また1984〜87年には,ISO/TC 97の副議長を務めた.

和田は1964年電気試験所を去り,成蹊大学教授に就任.日本アルゴリズム社長および会長を経て,1993年同社相談役.

勲三等瑞宝章.成蹊大学名誉教授.
情報処理学会名誉会員.情報処理学会情報規格調査会名誉会長.

2007年2月8日逝去


(高橋 茂)
(2003.8.21現在)