1904年生れ.1928年(昭和3年)東京帝国大学工学部電気工学科卒業.同年,現在の株式会社東芝の前身である東京電気株式会社(1939年芝浦製作所と合併して東京芝浦電気株式会社となる)に入社.当初は無線通信関係の研究開発に従事し,その功績により,後年進行波管レーダの発明について大河内技術賞を受賞した.
戦後(1948年頃),東芝のマツダ研究所研究部副部長であった三田は,欧米における電子計算機の発展とその将来性にいち早く注目し,個人の研究テーマとして電子計算機の研究(勉強)を始めた.電子計算機関連の資料が周りになかったので,自ら当時日比谷にあったGHQ(連合軍最高司令部)のライブラリに通って関係論文の情報を筆記収集したり,研究所の蔵書として入手可能な関係文献の整備を図ったりしながらのスタートであった.また東京大学工学部の山下英男教授にも教えを乞うていた.設計書をガリ版刷りにして社内関係者,東大工学部や理学部関係者に配布して研究の早期開始を図り,1950年11月にマツダ研究所研究部に松隈良材,八木基と共に電子計算機の研究チームを立ち上げ,EDVACを題材にした勉強会を開始した.電子計算機の研究を,真空管メーカでもある東芝として真空管応用機器の研究と位置付けた.
この研究では未知の体験の連続であり,その中から多くの成果が生まれた.たとえば,使用する真空管の数が増えるにしたがって真空管の寿命が問題となり,長寿命真空管の開発を行った.また,お手本としたEDVACでは記憶装置として水銀遅延回路を採用していたが,三田らは,ランダムアクセス能力を重要と考え,ウィリアムス(マンチェスター大学)によって発表されたウィリアムス管(ブラウン管)を記憶装置に採用することを決め,その開発を行った.
1951年に,東大山下教授を班長とする文部省科学研究費による「電子計算機の研究」としてTAC開発がスタートし,東芝も参加することになったが,その背景には,東芝内で進められてきた三田のリードによる電子計算機に関する研究があったことは明らかである.TAC開発に関する東芝側の研究代表は三田であった.東大が主としてソフトウェアを,東芝がハードウェアを担当してTAC開発が進められたが,東芝は完成を見ることなく1956年に開発から撤退し,東大の研究として引き継がれ,1959年にシステムの完成を見た.
三田は,学位,企業内での地位など,いわゆる世俗的な肩書きには興味を示さず,研究内容には深く没頭した.無口ではあったが,時々ウィットを飛ばしてにやりと笑う愛嬌さを見せた.
電気学術振興賞「進歩賞」(電気学会 昭和30年)
「電子計算機の研究並びに完成」
第13回大河内記念技術賞受賞(昭和41年度)
「進行波管レーダ方式の実用化」
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