日本のコンピュータパイオニア:高島 堅助

高島 堅助高島 堅助
(たかしま けんすけ)
1928〜1986

高島堅助は1928年2月23日生まれ.1950年に東京大学理学部物理学科卒業, 同年電気通信省電気通信研究所電気通信技官として採用された. 高島は入省以来一貫して我が国の電気通信事業の発展に貢献し,1979年に電電公社を退職するまで, 電子回路による高速演算技術の研究,電子計算機構成技術・設計技術の確立, 電子交換機および電電公社標準情報処理システム(DIPS)の研究実用化にその才能と努力を傾注し, 多大の研究成果を上げた.また,1979年大阪大学教授となり, 公社時代に培われた幅広い研究活動の経験と深い洞察力をもって, 計算機通信網・分散処理システムの理論的性能評価の研究などを主導的立場で推進する一方, 学生の教育および研究者の指導に当たったが,1986年病没した.

電気通信研究所時代,電子計算機技術に興味を持って研究を進めていた高島は,研究所において大プロジェクトとして検討したディジタル回路素子パラメトロンを用いた大型電子計算機の研究に参画し,パラメトロン計算機MUSASINO-1を完成した.この計算機は,パラメトロンを利用した国内最初の電子計算機である.我が国の電子計算機技術の萌芽期に推進されたパラメトロン電子計算機の研究は,計算機の方式技術・プログラミング技術の基盤形成に重要な役割を果たした.また,高島は早くよりデータ通信時代の到来を予想して,電子計算機技術を交換機に適用した電子交換機の中央制御装置の研究に着手し,さらに将来のデータ通信システムのベースとなる電子計算機と通信回線を接続する新しい計算機利用方式に着目して研究を進めた.これらの研究に基づき大型電子計算機DIPS-1の実用化を開始し,方式設計の責任者となり,ハードウェアおよびソフトウェアの実用化を完遂した.この実用化において,我が国情報処理技術レベルを米国に対抗し得るまで高めることができた.

また,高島は大阪大学着任後,マルチメディア通信網(特に構内網)における多重アクセス方式の研究,分散処理システムの性能評価の理論的研究,計算機を用いたプログラミング教育の研究などを行うとともに,後進の育成指導に当たった.

これらの研究の国内外における評価は高く,数々の功労賞や論文賞を受賞し,電子計算機を中心とする技術の普及発展に大きく貢献した.

1986年5月13日没.


(宮原 秀夫)