日本のコンピュータパイオニア:高橋 延匡

高橋 延匡高橋 延匡
(たかはし のぶまさ)
1933〜2002

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高橋延匡は1933年7月1日生まれ.1957年早稲田大学第一理工学部数学科卒業,直ちに(株)日立製作所に入社し,中央研究所に勤務.1977年東京農工大学教授に就任.数理情報工学科の創設に尽力する.1993年工学部長に就任.1997年定年後,拓殖大学工学部情報工学科教授.1999年工学部長.2002年6月30日逝去.

日立製作所においては,HIPAC103用の国産初の商用Fortranコンパイラの開発を経て,1962年から,村田健郎中澤喜三郎が中心となって開発した国産初の大型汎用計算機HITAC5020のモニタ開発の実質的リーダーを務める.モニタとは現在のオペレーティングシステムのことである.当時のモニタは,ジョブの連続処理,入出力ジョブと実行ジョブの同時処理,複数の実行ジョブの多重プログラミング処理の実現がその狙いであった.この計算機は1965年東京大学大型計算機センターの1号機として納入され,IBMのOS/360を向こうに回して,見事,多重プログラミングOSを実現した.その後,高橋グループは,HITAC5020を使って,米国MITのMULTICS開発と同時期に,本格的な仮想記憶OSを実現した.

高橋は教育,人材育成に熱意のある人だった.1977年東京農工大の数理情報工学科の創設に請われて移動してからは,EDSACアーキテクチャを使った計算機原理の教育,OS/omicron プロジェクトによる設計哲学の教育などを通して,その情熱が遺憾なく発揮された.拓殖大学においてもその姿勢は何ら変わらな
かった.教育に対する情熱は,学内だけにとどまらず,学会を通して,わが国の情報分野の教育に大きな影響を及ぼした.情報工学の標準カリキュラム
J90,J97には,本会カリキュラム調査委員会委員長として関与し,その後は,本会アクレディテーション委員会の初代委員長として,本会をJABEE認定に対する先進的な学会として位置付けた.

この間,高橋は,本会において上記以外に,1974年〜1976年理事,1993年〜1995年監事,1996年〜1998年副会長を務めている.


(益田 隆司)