中嶋章は1908年1月5日生まれ.1930年東京帝国大学工学部電気工学科を卒業,直ちに日本電気(株)に入社し,研究課の嶋津保次郎の下で遠方監視制御装置,自動交換機などの継電器回路と取り組むことになった.当時,これらの設計は天才的な勘を頼りに行われていて,有線通信の分野では,伝送屋が知識人とすれば,交換屋は名人気質の職人と見られていた.こういう環境下で,継電器回路の基本的な性質を明らかにし,それに適合した数学的な形式を見出すことによって,その設計を理論的に取り扱えないかと考えたのが,中嶋が現在のスイッチング理論と呼ばれているものの研究を始めた動機であった.
中嶋の研究は先人達の継電器回路の設計の実績から,その定石を抽出することに始まり,接点の作動インピーダンスが0または∞のいずれかの一方の値をとる時間の関数であることを踏まえた理論へと発展した.各接点のインピーダンスをA, B, ....などの記号で表し,A, B2つの接点の直列,並列の接続をA+B,A×Bで表す.また,2つの2端子回路網のインピーダンスC,Dが等しいことを,C=Dで表すことにすると,接続を表す記号は+と×は同時に演算記号と見なされるが,中嶋はこのような代数的表現に適合する演算法則が初等代数学のそれとはまったく異なるこものであることを見出すとともに,この代数的な取り扱いによる2端子継電器回路網の等価変換の理論に到達したのである.
この研究を始めてまもなく,1936年中嶋は搬送通信の分野に転職を命ぜられ,残業帰宅後スイッチング回路の研究に取り組む状況であったが,交換分野に残った同僚の榛沢正男の協力と技師長丹羽保次郎の激励で研究を続けることができたという.しかし,第二次大戦が始まるとともに,レーダ,航空無線の分野へとさらに転職を命ぜられ,戦争中の猛烈な残業と休日出勤のため,研究の継続は不可能になった.中嶋は戦後,日本電気の常務取締役を経て,同系列の安藤電気に転出し,1970年10月29日他界するまで同社社長であった.
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