日本のコンピュータパイオニア

塩川 新助塩川 新助
(しおかわ しんすけ)
1902〜1981

塩川新助は1902年11月8日, 神戸市に生まれた. 神戸一中, 一高(ここで宇野利雄と同級)で学ぶ. 東京帝国大学農学部林学科へすすんだが中退, 1928年, 九州帝国大学工学部電気工学科を卒業して安川電機に就職した. その後安川大五郎の紹介で富士電機製造へ移り, さらに富士通信機製造へ. そこで暗号の作成, 解読機の試作, 製造に従事した.

1940年頃, 塩川は2進法のリレー回路の研究を行っていた. 通信用のリレーの中古品を分解, 組み直して約200個を取りつけ, 2進法10桁の四則演算と10進2進の変換, 逆変換の回路が完成したころ, 大戦に突入していた.

1945年当時, 東大の航空研究所では, 連立一次方程式の求解が急がれており, 航空計数研究所が設けられ, 寺澤寛一が所長を勤めていた. 塩川はこの研究所の寺澤や佐々木達次郎と協力し, 行列式専用の自動計算機の試作に着手した. この研究はその後日光の古河鉱業の建屋へ疎開したが, 部品のリレーの入手のため, 命懸けで上京するようであった.

富士通社長の岡田完二郎にその才能を認められた塩川は, FACOM 100などを開発した小林大祐池田敏雄らに多大な影響をあたえた.

1959年, 塩川は有隣電機精機に出向, FACOM 128での計算サービスに従事した. その後, 武蔵工業大学講師, 東京証券取引所中央計算所長などを勤めた.

塩川は早くから2進法の合理性に着目, 生涯を通して2進法(と8進法)の啓蒙に努めた. 2進10進変換のための図表を工夫したり, 8進法の桁の呼び方を考えたりした. 塩川流の8進法は, 10, 100, 1000の桁をそれぞれ, Pa, Pe, Piという. 例えば8進の1750は Pi7Pe5Pa と読む. 大学では「七七とか一一」という講義をする先生として人気のあった塩川は講義録に書いている. 「30数年前に2進法を提唱して認められず, 孤独の中で絶望観に捉れたが, その一応用例として現在のコンピュータの隆盛を, 幸いにも生きている間に見ることができたのは感慨無量である. ところがそれと同じ寂しさが, いま再び身にしみるのは, 8進法が相手にされないことである. だが何十年か後にはきっとだれか影響力のある人が外国でいいだしてくれることであろうと, 蔭ながら祈っているが, 今度は生きている間にそれを知ることはあきらめなければなるまいと思うしだいである.」

池田敏雄は塩川のことを, その機知に富んでいることから「昭和の曾呂利新左衛門」と呼んだ.

1981年9月15日没


(岸本 行雄・和田 英一)