日本のコンピュータパイオニア:尾関 雅則

尾関 雅則尾関 雅則
(おぜき まさのり)
1924〜2014

インタビュー記事

尾関雅則は1924年1月29日生まれ.1946年9月東京帝国大学第一工学部電気工学科を卒業,同年11月 運輸省に入省した.1950年東京電気工事事務所勤務となり1952年から電話交換の自動化工事に従事し,国鉄となった本社のある東京交換の自動化工事を設計した.利用できるスペースの制約が厳しく,狭い空間をやりくりし13回も架間で切り替えを行う複雑な工事を無事故で竣工させた.1956年,函館の青函船舶鉄道管理局に転じ,国鉄最初のクロスバ式交換機の設置工事を設計,施工した.1959年本社電気局通信課に転勤し全国の鉄道電話網自動即時化の番号計画,呼損率配分,伝送基準および規模別の標準交換機の方式等を含む基本計画を立案し決定に導いた.1968年電気局通信課長になり,当時,中小型のコンピュータを多数組み合わせて構成されていた座席予約システム(MARS101〜103)を大型計算機一式(H8700)で構成する実装70万座席/日・容量140万座席/日のMARS105システムに改良する計画を立て,国鉄最初の本格的なプロジェクトチームを組織して自らチームリーダを務めた.また,この計画には公衆電話網から,プッシュホンでインプットして予約ができる電話予約システムが含まれていた.これは我が国最初の電話予約であった.1972年電気局長になり,武蔵野ヤードの自動化工事,新幹線運転管理のコムトラックシステムなどの開発を指導した.

1978年,国鉄理事を任期満了により退職し,1979年日立製作所に転出した.1980年オフィスオートメーションシステム推進本部長,1982年OA業部長となり,事業の立ち上げを推進した.この時,開発したGMM(Graph Master Mini)は,パソコン利用の図面管理用OAシステムとして広く使用されている.1987年,国鉄の分割民営に伴って,新しく生まれた鉄道総合技術研究所の初代理事長になり,リニアモータ推進・浮上式鉄道の山梨実験線建設を指導した.また,パソコンのみで構成した研究所のOAシステム(TOA)の開発を指揮した.このシステムによって,紙を用いない電子立案,電子決裁が可能になった.

尾関は1985年5月から1987年4月まで情報処理学会会長を務めた.


(2003.8.29現在)

2014年1月1日逝去(事務局注).