日本のコンピュータパイオニア

南沢 宣郎南沢 宣郎
(みなみさわ のぶろう)
1918〜

南沢宣郎は1918年2月11日生まれ.1950年に東京大学経済学部卒業,小野田セメントに入社,1953年より総務部情報処理担当部長として事務処理の一貫機械化を推進した.後に,日本コンピュータ・ユーティリティ協会理事長,日本データ・プロセッシング協会副会長として活躍,小野田セメントの顧問に就任した.

1950年代の我が国では,気象予報等の大型計算に電子計算機が利用できるという程度の認識が一般であった.事務計算の機械化にはもっぱらパンチカードシステムを用いるのが普通であった.1953年小野田セメントの社長であった安藤豊禄から事務の機械化を命ぜられた南沢は,事務計算の合理化に電子計算機を活用しようという考えを持ち,これを実施に移すべく検討を開始した.

パンチカードシステムにおいては,入力の手作業に労力を要し,各種の業務を一貫して行うには,この点が障害になる.今でこそ,このことは一般常識であるが,当時は事務計算の機械化自体が新しいことであり,かつ事務計算全体を合理化するということは,単なる計算業務の置き換えにとどまらないため,一般には受け入れられなかった.南沢の考え方は先駆的なものであった.

1953年より電子計算機導入の検討を開始して構想を練り,1つのシステムの概念に到達した.それがM式総合機械化・経営指針決定資料一貫処理方式である.南沢の構想がほかでは行われていないということで,社長の安藤は推進することを支援した.また,彼の構想に協力してくれたのはUNIVACで,UFCを導入することにしたが,計算機の発注から輸入までには年月がかかった時代であったので,まず, IBMのパンチカードシステムからスタートしたのである.

南沢は1956年,渡米してインテグレーテッドデータプロセッシングシステムを視察した.これは当時アメリカでも最新のデータ処理方式として注目され,USスチール社,フォード社,メリルリンチなどで実用に入ったばかりで,まさに彼の構想そのものであり,その実現のために本格的な計算機の導入を待っていたものであった.南沢の構想は当時我が国では特異な存在であったが,米国では正しく評価された.小野田セメントへの本格的な電子計算機UFC(UNIVAC File Computer)が入ったのは1959年であった.

南沢は単に自社のシステムを先駆的な思想で構成しただけでなく, 1957年「経営オートメーション」(同文館),1958年「オートメーションと経済学」(日刊工業新聞社)「オートメーションと会計学」(同文館)等の著書を通じて世を啓蒙した.その後我が国の事務合理化やオンライン化の果たした役割は大きい.


(2003.8.29現在)